蛍光灯18.8%×住みなれし里も今更名残りにて・・・
おはようございます。
<蛍光灯>
本日の中日新聞記事。
桑名市で省エネ節電対策本部の初の会合が開催された記事。
本庁舎の18.8%の蛍光灯を間引いたとのこと。
現在の社会状況の中、一定の理解はするが、「やっと」の感じ。
出先機関はどうなのか?
<宝暦治水薩摩義士257年忌追悼供養大法要>
昨日25日(水)海蔵寺へ。
足を運ぶのは10回ほどになり過去の記憶がよみがえる。
長島町教育委員会の職員時代、学校・社会教育まで何でも担当した。
小学校社会科4年生「低い土地の人々の暮らし・輪中」社会見学の案内を当時は、資料館「輪中の郷」もなく教員の教材研究の来町も含め年間70~80校を対応した。
NHK(?)でルーツ(米国黒人社会のルーツをテーマ)が放映されていた頃でもあり、日本でもルーツを訪ねるブームが起きた。
長島藩の菅沼家他の末裔が来町。
こうした案内をすると、流れの中で町境を越え千本松原・治水神社・海蔵寺も何回か案内・参拝に随行したことがある。
某寺で先祖のお墓を見つけ涙し参拝された方を思い出す。
小学校の案内・教員の教材研究であればそれなりに対応できるが、歴史関係者やルーツを訪ねる方の場合、それなりにでは?と思い、事前に案内する場所を聞いたり質問も受け勉強した。(わからないことも多かった。)
宝暦治水は幕府の命により薩摩藩が治水工事をしたことは皆さんもご存知と思う。
工事は、一之手(羽島・稲沢)、二之手(弥富・木曽岬北部)、三之手(大垣・南濃・海津北部)、四之手(海津南部・桑名北部)と4工区で、工事費は40万両(300億円)。
大阪の商人から多額の借財をして、藩の財政は悪化した。
この工事が、幕末の倒幕の一因になったとも言われている。
完成後の幕府の工事検査は、宝暦5年(1755)5月23日。
幕府の無理難題な要求に多くの家臣が抗議のため自害したが、幕府から藩への報復をおそれ「腰の物にて怪我」と届けたり他、多額の藩の借財にも責任を感じ、主家・藩の安泰を祈り現地で指揮をとった平田靱負氏が256年前の5月25日に切腹。
「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちもわずろう 美濃の大牧」
時世の歌を残している。
この歌のご詠歌も法要の中で初めて聞いた。
自害した中に薩摩藩以外の方がいたことはあまり知られていない。
お手伝い普請と薩摩藩の監視の命を受けた、上石津町地帯を治めた高木家の家臣が、難工事であることは明らかで工事期間の天候安定と完成を祈り、自らが人柱として入水している。
読経の30分の時間、当時勉強した様々な記憶が脳裏を駆け巡った。
追悼の辞の中に「工事費捻出のため、奄美の島民の方がサトウキビ生産で重労働を課せられた。」の言葉があった。
工事が始まり薩摩藩では質素倹約他、農作物他の生産で民が重労働を課せられていたことは知っていた。
奄美も薩摩藩の治めた場所。
宝暦治水×奄美の島民(サトウキビ)
私の知らない気がつかなかった桑名が、そこにはあった。