8年前、午後2時46分
おはようございます。
3/11東日本大震災から8年。
午後2時46分、本会議中の揺れに一旦会議を中断し、その日は散会としたことを想い浮かべる。
新聞・TVでは1週間ほど前から記憶風化、教訓、防災、減災等をテーマとして特番が組まれている。
床下泥だし・視察他で6回被災地へ。
4ヶ月後、仙台市の南側に位置する亘理町へ。
途中休憩し14時間かけ向かい、早朝5時半頃に到着し6時頃、漁港で漁師からお聞きした話。
三重ナンバーの車を見て
「ボランティアか?」⇒「はいそうです」⇒「よく来てくれた。三重の自衛隊の部隊に世話になった。道をつくるためガレキ撤去中、損傷した遺体と向き合ってくれたのは自衛隊員」「沖にいて津波とガレキを避け操船するのが大変だった。遠くから人の声らしきものも聞こえたが、どうすることもできなかった。翌朝、港へ戻った・・・・。」
5時間「Aさん宅」で泥だし作業をした後、高速パーキングで仮眠しながら三重へ戻った。
2年後の8月、この頃になると旅行でも支援となるとして「Aさん宅」周辺はどうなっているかと思い家族で足を運んだ。
偶然、庭の掃除をされていて、こちらに気づかれ話しかけてきた。
居間に泥出用の穴、勝手口に泥のついた子ども用スキーや登山用具、近くの川に町の艇庫があったが今はなく橋の上に船が乗っていたが橋もない・・・・の話をして名刺を渡したら招き入れられた。
海岸近くだが川が近くにあり津波が堤防を横に移動し川に集中して遡上した。
1階が浸水したがガレキも当たらず偶然重なり家屋の流出は免れた。
地震直後、近くの学校へ向かい、登山用品の入ったリュックをそのまま持っていった。
保育園児や赤ちゃんも避難しておりリュックの中のミニコンロでお湯を沸かしミルクを作るなど、避難者で協力した。
学校から一歩もでることはできず2日後に自衛隊ヘリで避難所へ脱出。
当日午前は卒業式で子どもは午後から友人宅に遊びに行き安否が確認できたのは翌日。
1週間後に兄が秋田から。
坂路と橋台部分等の道路の段差ほかで自然渋滞が多く通常半日だが、1日以上を要した。
子どもはしばらく秋田の兄宅で過ごした・・・・。
半時間ほど話をお聞きした。
本日、午後2時46分。
3.11の記憶を風化させることなく災害のない社会の実現を祈念したい。